「信元夏代のスピーチ術」編集長 信元です。
「全8回シリーズ:日本人初NYスピーチコンテスト優勝への軌跡」もいよいよ最終回です。
最終回の今回は、私がプロスピーカーの道を歩むことになったきっかけについてお話しします。
スピーチコーチ認定、そしてTEDxへの登壇
トーストマスターズの国際スピーチコンテストにコンスタントに決勝入りするようになり、私はパブリックスピーキングに邁進するようになりました。
2013年には、1999年の世界チャンピオンであり、プロスピーカーとして全米で活躍しているクレッグ・バレンタインが始めた「ワールドクラススピーキング」という、スピーチコーチとしての認定プログラムを受けました。訓練を重ねて、2016年には、東京で、かのTED×WASEDAに出ることもできました。
そしてグローバルスタンダードなブレイクスルー・メソッドを広めれば、誰でも異文化コミュニケーションができる、と確信を持つようになりました。
心の支えになったのは、スピーチ。
ところが、そんな時に青天の霹靂の出来事が起きました。
2017年の2月6日、国際スピーチコンテスト第一次予選の前日に、私は乳がんの告知を受けたのです。
聞いた時はショックで頭が麻痺したようになり、なにより、その時5歳になったばかりの娘のことが気がかりでした。
翌日の7日は国際スピーチ大会の第1次予選。それでも大会に出て、予選を1位通過。ひと月後に第2次予選。それはがんの全摘手術をする予定日の3日前でした。出場し、これも1位で通過。そして第3次予選が、全摘手術の1カ月後で1位通過。無事に決勝に進出しました。
決勝はNYで、5月に予定されていました。私は6月に乳房再建手術を控えていました。
「ナツヨ、なんでそんなたいへんな時にスピーチをやるんだ? 無理しなくてもいいんじゃないか?」
当時、コーチをしてくれていた1995年の世界チャンピオンのマーク・ブラウン氏は、そう心配して言ってくれました。
大変な時だから、スピーチなんてしなくていい。
でも私はこんな大変な時だからこそ、心の支えが必要でした。
たとえるならスピーチとは、胸から何百本の紐が出ていて、それがみんなとつながっているようなイメージでしょうか。大変な時だからこそ、スピーチしたい。自分のストーリーをみんなと共有して、多くの人と心と心でつながりたかったのです。
同時に、乳がんを経験したことで、「私にしか語れないストーリーがあるはずだ」と思えたのです。この時に伝えることとの素晴らしさを改めて感じ、「スピーカーとして生きていく」、という覚悟が生まれました。
手術と手術の合間にコンテストを勝ち進みながら、プロフェッショナルスピーカーとして、NSA(全米プロスピーカー協会)のメンバーとなりました。伝えることそのものを仕事にするプロのスピーカーとして歩み始めたのです。
そして、コンサルタントの仕事もしながら、「伝えたいことを間違いなく人に伝えられるメソッド」を自分なりに組み立てていきました。自身が乳がんにかかったことを通じて、プロスピーカーとしてのミッションを再確認したのです。