「信元夏代のスピーチ術」編集長 信元です。
スピーチコンテストで優勝、プロスピーカーとしての活躍するようになってから、日本人が海外でスピーチやプレゼンを成功させる秘訣について寄稿依頼があり、様々なメディアで寄稿しております。
今回は、私が現代ビジネス2019年1月9日に寄稿した「純日本カルチャーで育った私がNYでスピーチ優勝者になれた理由」の第一章「NHKラジオ英会話を欠かさなかった学生時代」でお話した私の学生時代をご紹介いたします。
NHKラジオ英会話を欠かさなかった学生時代
私が初めて英語を学んだのは、きっと皆さんと同じ、中学1年生の時でした。
今でこそ、小学校でも英語ネイティブの先生が来て英語のクラスがある学校もあるようですが、当時は小学生で英語を学んでいる子は少なくとも私の周りにはいませんでした。
私の父は当時、自動車部品メーカーの社長として世界を駆けまわっていて、英語はもちろん、フランス語と中国語にも堪能でした。
中学受験を終え、女子学院中学校に入学することが決まった直前だったでしょうか。中学からは英語を学ぶのだから、と、父が少し英語を教えてくれました。
最初に父が教えてくれたのは、「This is an apple.」笑。
確かに初めての英語の教科書の最初に出てきたのは、「This is an apple」、「This is a pen」、などでした。当時は、父の英語の発音がなんてカッコいいんだろう!と尊敬したのを覚えています。
学校が始まると、父が買ってきてくれたのが、NHKラジオ「基礎英語」のテキストでした。新しい言語を学ぶことにワクワクした私は、毎日基礎英語を聞き始めました。その時間に帰宅できない日は、あらかじめ母に頼んで、カセットテープに録音しておいてもらいました。(時代がばれてしまいますね!!当時は、ラジカセを使っていました;;)
そして中学1年生から大学まで、NHKのラジオ英会話を基礎英語からビジネス英会話まで毎日欠かさず聞いていました。
奨学金で留学!を目指し猛勉強
早稲田大学に入学してからは、NHKのラジオビジネス英会話のほかに、当時はやった「駅前留学」もしていました。そのころにはすでに、英語は得意になっていたので、「駅前留学」の英会話学校でも、クラスは一番上のレベルに振り分けられていました。
留学をしようと決めたのは大学3年生のときのことです。でもお金もかかりますし、親も、はいそうですか、とそう簡単には留学をさせてくれません。早稲田大学には、100%の奨学金でアメリカの大学に留学させてくれる交換留学システムがありました。奨学金を取って栄誉ある学校に合格して行きたいと言えば、両親もNOと言わないだろう、そう考えました。
それからは留学に向けての猛勉強です。大学の授業をさぼってまで(!)英語の小論文と二次面接の勉強を必死でしました。しかし合格の条件となっていたTOEFLを受けたところ、希望している学校の平均より50点も低かったのです。でも小論文が良かったのか、二次面接にこぎつけました。二次面接は全部英語です。「得意」の英語で私は面接官に、
「I am confident that I can raise my TOEFL score before I go to the US.」
と断言しました(汗)。
そのはったりが効いたのか、見事合格。と同時に、「渡米前までに絶対TOEFLの点数を上げます、と断言しちゃったじゃないか...!」と内心焦りました(笑)。合格してから慌ててTOEFLの過去問を繰り返し解いて、なんとか有言実行。「私、英語できるじゃない!」と英語力に自信を持っての留学となりました。
ところが、自信があったはずの英語が、まったく通用しなかったのです。
まさか、英語が通用しない!?
留学先は、ミズーリ州セントルイスにある、ワシントン大学でした。私はその時大学3年生でしたが、「新入生」として、1年生の寮に振り分けられました。
寮に入った初日、各フロアのRAと呼ばれるResident Assistant(寮生のリーダー役の、高学年の学生)による、寮内ツアーが行われました。そこに入ってみたものの、みんなのの会話に全くついていけません。スピードが早すぎる、会話調の英語は教科書に載ってないものばかり、さらには、大学生が使う「若者の英語」なんて聞いたことがない。
「How do you do? My name is Natsuyo. 」
「How are you? I am well, thank you. And you?」
なんていう英語をしゃべっている人は誰もいません...
英語ができない!!!!!
留学一日目にして私は落ち込んでしまいました。
それからは、夕飯が終わるとすぐに自分の部屋に閉じこもり、二日に1度は泣く日々が始まりました。
次回は、「第2回.「英語できるはず」が少しも話せない!」です。お楽しみに。
あなたのスピーチ・プレゼンのブレークスルーのきっかけになれば幸いです。
純日本カルチャーで育った純ジャパの日本人ながらも、激戦区ニューヨークのスピーチコンテストで優勝し、アメリカでプロスピーカーとして活動するまでに至った私の学生時代をご紹介します。