”Failure drove me to despair. (失敗のために私は絶望に駆られた)” このような無生物主語を使った英語表現は、英語特有なもので、日常的に使われるが、日本語にはあまり見られないものである。先の例文は、「失敗が私を絶望の淵に突き落とした」などと修辞的に訳してもいいと思うが、何か小説に出てきそうな表現であり、日常会話で頻繁には聞かれない。日本語にも擬人化などで、「森が語っている」などの表現はあるが、それはやはり修辞法の一部であって、英語ほど多用されない。英語では、ビジネス英語や科学論文にも、普通に登場するのがこの無生物主語の文章だ。
そんな無生物主語を含む文章が自由に書ければ、英語らしい自然な英語を作る達人と呼ばれるだろう。しかし、多くの日本人にはそれが難しいと思う。なぜなら、そもそも日本語にはこういう発想があまりないからだ。それは、もし翻訳機を使うにあたっても、非常に高いハードルとなるし、英語学習者にとっても頭の痛い課題となっている。この記事では、日本語と英語を比較することによって、具体的にどんなところが障害となるのかを、文例をあげながら深く考察してみたい。
1. 失敗と絶望
冒頭の例「Failure drove me to despair.」を、もう少し詳しく解説してみよう。
日本語では、無生物が主語となるのは珍しいので、どうしても、同じ感情を英語で表現しようとすると、
私は失敗して絶望に駆られた→ I felt despair by failure.
と訳してしまうかもしれない。Failure drove me to despair. という表現は知っていても、いざ、それを自分で英語にして表現すると、Failureをまず主語にしようという発想が湧かないと思う。少なくとも私はそうだった。
では、この私の表現は、英語のネイティブスピーカーにはどう聞こえているのか、と問うと、「文法的には正しいが、日常会話ではあまり一般的ではない」と感じ、「人によっては、少しフォーマルっぽく聞こえたり、不自然に聞こえることもある」と言う。
2. ビジネスと移動
“Business took him to Osaka.”
直訳: 仕事が彼を大阪に連れて行った。
この例では、「Business took him to Osaka」という英文は、ごく自然な文章であるが、それを日本語に直訳すると、何だか変な感じがする。なぜなら、自然な日本語では、
自然な日本語訳: 彼は仕事で大阪に行った。
と表現するからだ。英語では、無生物である「ビジネス」が行動の主体となっているのに対して、日本語の自然な表現「彼は仕事で大阪に行った」では、「彼」が主語で、行動の主体として扱われており、行為を起こすのは「彼」自身だ。この違いは、前例同様、英語が無生物主語をより自然に受け入れるのに対し、日本語では、それをあまり一般的とせず、生物主語が行動を主導することを示している。
日本人が英語を話す場合、よっぽど流暢な英語を話す人でない限り、”Business took him to Osaka.”とは言わず、より自然な日本語訳である、「彼は仕事で大阪に行った」を英訳した“He went to Osaka on business.”を使うと思う。
では、先の例文では、”Failure drove me to despair.”と言う表現が慣用的に使われるため、 主語「I」を持つ文章は、英語では、ちょっと不自然に感じるとのことだった。しかし、今回の場合は、英語のネイティブスピーカーには、どのように聞こえるのだろうか? ちょっと見、文法的にも慣習的にも、特に問題なさそうだが、果たして本当のところはどうだろうか?
無生物主語を使用した元の英文:
1. “Business took him to Osaka.”
日本語訳を英訳した場合:
2. “He went to Osaka on business.”
ニュアンスの違い:
1の無生物主語「Business」を使う場合は、ビジネスそのものが彼を大阪に導いたという、より能動的な印象を与えるらしい。これは、ビジネスが彼の行動を決定したかのように聞こえ、仕事の重要性や影響力が強調されている文章だ。
一方、2の「He went to Osaka on business」という表現では、「彼」が主語である関係上、その行動を起こした主体として描かれ、ビジネスはその行動の理由の一つとして位置づけられている。つまり、あくまでも彼についてのストーリーが展開されているわけだ。
二つの違いは、あくまでも、強調したい点が、ビジネスなのか、人なのかの違いなのだ。この違いは、主体性の所在が異なることによって、文章の受ける印象が変わることを示している。
3. 時間が感情を動かす
“Monday morning found Tom Sawyer miserable.”
直訳: 月曜の朝がトム・ソーヤーを悲惨な状態で見つけた。
こういう表現を初めて見た時、私は、とてもびっくりしたものだ。「英語では、朝が人を惨めにするのか!」と。この「時間」でさえ主語となってしまい、時間が人物の感情状態を発見するという、この英語のあり方は、日本人の私にはとても受け入れ難いと思う反面、非常に印象に残った。忘れられない英語表現の一つだ。日本語では、月曜の朝が彼を悲惨な状態で見つけることはなく、
自然な日本語訳: 月曜の朝、トム・ソーヤーは悲惨な状態だった。
と主語を「トム・ソーヤー」とする表現が自然だ。時間を行動の主体とする考え方は日本語にはないため、このような英語の表現は翻訳や理解が困難だ。
では、日本人がこの描写を英語にしようとした場合、月曜の朝を主語にしようとする発想は、まずないだろうから、次の「2.」 のような英語になるだろう。私の友人たちに意見を求めた結果が以下のニュアンスの違いだ。
無生物主語を使用した元の英文:
1. “Monday morning found Tom Sawyer miserable.”
日本語訳を英訳した場合:
2. “In the Monday morning, Tom Sayer saw himself miserable.”
ニュアンスの違い:
1の「Monday morning found Tom Sawyer miserable」では、この表現は、月曜日の朝を擬人化したもので、あたかもその朝自体がトム・ソーヤーの悲惨な状態を発見したかのようだ。 それはトムがより受動的な役割を果たし、彼の悲惨さがその日の特有の出来事であるかのような、また、時間が積極的にトムの感情に影響を及ぼしているかのような印象を与えている。これはより詩的かつ外から客観的に観察した表現方法だと言える。
2の「In the Monday morning, Tom saw himself miserable」という表現は、対照的に、トム・ソーヤーの自己認識と自分の悲惨さの個人的な認識に焦点を当てている。 これは、トムが自分の感情状態を積極的に認識し、物語の中でこの文章が使われるとしたら、トムがより中心的な役割を果たし、より内省的な声明となる。これにより、トムの内面への洞察が強調されるものの、時間の役割は後退する。
また、これは、日本語の表記でも言えることだが、文章の構成・順序を少し変えることで全体のニュアンスに強く影響することを示している。そこに作者の作品を構成する意図を感じさせてくれ、名作と呼ばれるものは、この意図が成功した例なのであろう。
なぜ無生物主語が多用されるのか?
Business, Monday morningの例で見られるように、生物主語(私、彼ら)を使うと、そこがどうしても、強調されてしまう。日本語と違って、英語においては、「主語は必ず最初に来なくてはいけない」という絶対的な語順的文法が存在する。だから、日本語の語法をまねて、主格となる生物を冒頭に持ってきてしまうと、それが強調されてしまって、内面的だったり、主観的な文章しか書けなくなってしまうことになる。
そこで、無生物主語が登場し、これを使うことで、客観的な描写もできるようになっているのである。無生物主語が存在する理由はここにあるのである。厳密に言うと、他にも理由は存在するが、この構造的な要因が大きい。日本語には、便利な助詞の存在によって、比較的自由に位置を変えられるし、主格も一目で分かるシステムを持っている。だから、英語のように、主語にするために文節をがんばって名詞化(=無生物主語)するというような、そういう心配をしなくて良いだけの話だ。
4. 競技が人に挑戦する:Challengeと挑戦するは同じではない
“The marathon challenged the runners.”
直訳: マラソンがランナーたちに挑戦を与えた。
この文章に初めて感銘を受けたのは、マーク・ピーターセン著「心にとどく英語」(1999年)を読んだ時で、かなりの衝撃だった。新聞などで普段見かけてはいた表現だったが、特に気にも止めなかった。でもよく考えてみると、「競技がランナーに挑戦する」というこの表現は、日本語ではありえない、と思った。通常、日本語では
自然な日本語訳: ランナーはマラソンに挑戦した。
と、主語を人間にして表現するからだ。まったく考え方が逆である。しかも意味が違うのだ。
ここで、英語のChallengeの使い方に注目して欲しい。これは、日本語の「〜に挑戦した」との意味ではないとピーターセン氏は説明する。
- I challenged him to run in a marathon. (マラソンをできるならやってみろ!)
- We challenged them to a game of doubles.(私たちは、彼らにダブルスの試合を申し込んだ) 上記著書p4より
というように、「(競争・試合などへの)呼びかけ」を表している。日本語が表す「挑戦する・困難に取り組む」という意味ではない。
もし、日本語の意味で使いたかったら、名詞として使えばいい。例えば、上記の2のダブルスの呼びかけに対する応答として、
- They accepted our challenge.
- They refused our challenge.
とすれば良い。また、
The US Olympic Team challenged the gold medal(アメリカのオリンピックチームは金メダルの異議を唱えた)
という文章を、日本人は、「アメリカのオリンピックチームが金メダルに挑戦した」と誤解してしまうが、決してそうではない、とピーターセン氏は述べている。
to challenge は、物事の「事実」や「正当性」が疑われた時に、相手に立ち向かって意義を申し立て、ぜひを決定するための「対決」を申し込むことである。上記著書p6
というように、あくまでも、challengeの動詞は、呼びかけ・申し込みをすることだと著者は解説している。
この違いを認識していないChat GPT
無生物がアクションを起こすという発想以外にも、こういう一つ一つの単語を正しく理解しないと誤解を生じる原因になる。実際、翻訳機にかけてみると、正しい翻訳が出てこない。Chat GPTにもさせてみたが、ダメだった。
このことは、日本語と英語の文法構造・使用方法には、お互いに存在しないものがあるため、それらを翻訳したり、表現したりする際の大きな障害となることを示している。
無生物主語を使用した元の英文:
1. “The marathon challenged the runners.”
日本語訳を英訳した場合:
2. “The runner participated in the marathon as his challenge.”
ニュアンスの違い:
1の「The marathon challenged the runners」では、マラソン自体が主体となり、ランナーに挑戦を提供する能動的な存在として描かれるため、マラソンの厳しさとその影響力を強調し、ランナーが直面する挑戦の大きさを前面に出している感じがする。
2の「The runner participated in the marathon as his challenge」という表現は、一方で、ランナーが自発的に挑戦を求めてマラソンに参加したことを示し、行動の主体がランナー自身にあることを強調している。あくまでも話の主人公がランナーであり、彼の意気込みとかエネルギーを感じさせる文章だ。
この違いから、英語では無生物主語を使うことにより、イベントの重要性やマラソンの厳しさを際立たせる手段として用いられることが分かってくる。